大切な友人との約束
最近大切な友人と長電話をしました
同業種で同じ歳、仕事の話が出来る貴重で大切な友人です
「俺、もう美容師続けられなくて辞めたから(笑)」
僕らの業界は3年後に3割、10年後に1割しか残らないと言われる業界
まさか僕の友人から辞めた発言を聞くとは思わなかった
上にも下にも気を使い、休日は無し、ぶっ続けで動き続け睡眠時間は3時間
度重なるプレッシャーと重圧にとうとう心が壊れてしまったらしく
鏡の前に立つと過呼吸、立って居ると蕁麻疹、鋏を持つと手が震える
悔しそうに泣きながら伝えてくれたあの声が忘れないです。。。
そんな友人が僕に託した美容の気持ちと約束した2つの事がある
・持つべきプライドと捨てるべきプライド
・媚びない
この2つを友人の変わりに背負って立つ事にした
ここからはあくまで僕個人的な意見を書かせて頂きます。
持つべきプライドと捨てるべきプライド
以下のような言葉がプライドという一言でまとめられていることがわかります。
「誇り・自尊心・自信・うぬぼれ・傲慢・虚栄心」
これだけ多くの言葉を単に一言でプライドとして使われ、プライドと一口に言っても色々な気持ちが含まれている
分類するなら、良い意味が「誇り・自尊心・自信」
悪い意味が「うぬぼれ・傲慢・虚栄心」といったところです。
よく使われる言葉で「不要なプライドは捨てろ」と言われます。
ここで言う、不要なプライドというのは悪い意味でのプライド。
つまり「うぬぼれ・傲慢・虚栄心」この部分なのではないでしょうか。
捨てるべきプライドか捨てないべきプライドを考えたとき
・持つことで自分を伸ばすことができるのか
・持つことにより、自分をダメにするのか
ここを基準に考えてみる様にしたい
媚びない
「尊敬していない人に、尊敬を示す行為を嫌々ながらやること」が
僕にとっての「媚びる」という概念に近いです。
歳を人よりも取っているから人よりも多くを経験しているとか、知らないことを知っているとか特に僕らの業界では言えないと思います
人には尊敬している人とそうでない人がいます
この区分は誰かに決められてやるものではありません。
尊敬している人というのは、僕が尊敬している人を指します
誰にも「彼を尊敬するべきだ」とか「彼女は尊敬に値しない」とか言われる筋合いはありません。
改めて言語化すると
媚びないということは、僕自身が尊敬する人間以外に対して「こういう事をしないと機嫌を損ねる」という行為を無理に行うことをやめるということです。
犯罪行為を犯して自慢気に語る人、弱い立場の人間に対して高圧的に接する人、自分の考えを絶対だと思って人に押し付ける人、全部大っ嫌いです。
そういう人に例え年上だろうと尊敬を、そしてそれを示すような行為を僕はしないという事です。
僕が大好きな人に僕の尊敬の念を伝えることになんの不満もありません。
でも、そうじゃない人に「なんとなく、しておかなくちゃいけないのかな」なんて中途半端な気持ちで僕は媚びて喜ぶようなことを嫌々ながらはしません。
媚びなくてもいい人生になるためには
誰か、自分の気に入らない人かつ偉い人に嫌われたら困るという状況を作らないということ?
「面倒だけどこの人の機嫌を損ねないようにしよう」なんて、人と関わるに当たってこんな目標が良いと思いません
それで嫌われるなら結構。そんな僕を好きでいてくれる場所や人はいます。
誰にも、僕の持つ物差しを侵したりさせません。
その友人から1番使いこんできた鋏を貰った
新人時代からギリギリの生活を更に切り詰め何年もローンを組み
沢山悔しい嬉しい思いをし沢山の方を綺麗にして来た友人の喜怒哀楽色んな物が詰まった大切な鋏だ
薬指孔は入り過ぎない様、あえて狭いし元々柔らかい切れ味を好んで使って居た僕とは対象的に力強い切れ味で切れる僕からしたらジャジャ馬の様な鋏
美容を心から続けたかった思い
必ず使いこなしてみせます
見る(観る)
観る事も見る事も好き
作者は何を伝えたくどういった感情をブチ込んで描いたのか考えながら観るのも好き
ただボーっと無意識をマッサージさせながら見るのも好き
水族館の超巨大な水槽の中で何千と居る魚を見てる(観てる)事も好き
[見る]・・・ただ単に、視界に入っている状況の事。特に何かを考えるのではグルリと見回すだけの状態
[観る]・・・視界に入っている対象物に対して、何らかの感想・印象といった自分の考え方を持つような状況の事。
という事から、作品を目にする場合、歩きながら作品を目にしていくようであれば[見る]という事になり、一つ一つの作品を立ち止まりながら目にして、その時に「色彩が綺麗だなぁ~」とか「細部まで正確に上手に描いているなぁ~」とか「何を伝えたいのかなぁ~」といったように、作品に対して何らかの自分の考えを持つ事が出来る状況であれば[観る]という事になると思います。
作品を目にしたからといって必ずしも[観る]という表現は出来ない
要するにどのような状態で目にするのか?といった事により使い方が変わる
自分が何かを目に入れる時は必ず女性と行く様にしてます、性別や生き方が全然違うので違った感受性の話がとても面白い
僕が無理を言って描いてもらった1枚を紹介したい
後日詳しく書きたいが、とあるタイトルのゲームに本気でのめり込んだ時期が有った。
その時友人に描いてもらったイラスト
作品名は『Rainy』
素朴にどことなく遠くを見つめているようで近くを見て居て堪らなく好き
部屋に飾る位お気に入りの一枚、哀愁漂ってる
『画』は、自分の明確な意識が介在しない「え」の事その人の作為――「こう描けば、他人はこう見てくれるだろう」とか「誉めてもらえるように上手に描こう」などと考えないで、与えられたテーマだけに基いて描かれた「え」のことです。「夢中で描いた“え”」と言ってもいいでしょう。
『絵』は、ある目的のもとに、目的に添うように、計画的に描く「え」をいいます。仕上がりの結果を想定した上で描き始めるわけです。こちらは「冷静に描いた“え”」と言えるでしょう。一般的な絵画
白いキャンパスに絵の具をぶちまけた様な作品を見て一般では『こんなの俺でも描ける』と言うのが普通だが自分も同じだと思う
違う点は自分達は何の感情も無くただ単に文字や文章を「書く」の書くしか出来ず画家達は感情をブチ込めて「描く」事が出来るのだと最近になってようやく解って来た
単に文字や文章を「書く」感情を込めて「描く」
作品って難しい(_ _).。o○
相談
今日は仕事に悩んでいる友人の相談にのった。悩める人結構好き。
悩んでいるときには表面的な具象よりも、無意識がマッサージされるような絵を見ると楽になることが多い、まれに効かないですが(笑)
基本的に抽象画も映画も好きな理由が似て、それが映像であることによって言葉を認識するのとは比較にならないくらいに早くその情報を処理しなければならないので、言葉による意味解釈よりも、言葉の意味をせまめに脳が無意識的に設定しておかないと、情報処理が追いつかないのでよい。
「インスピレーション」(inspiration)もしくは「ひらめき」と呼ばれる働きの語源はラテン語で、「息を吹き込まれたもの」*1であり現代では「霊感」や「閃き」といった意味で使われる。「霊感」は霊や神様・仏様などを感じたり反応したりすることを意味する言葉だ。これは意識に先んじて、無意識はすでに考えている、無意識はつねに環境と対話しているといえる。
お風呂に入り髪の毛を洗っているとき、トイレの便座に座っているとき、散歩中などにふっとインスピレーションが起きやすいのは、フロイトのいう「意識的な努力(作用)が弱まる」からである。「作品とはつねに合作である」という事実である。
『P.T』(2014)
「ホラー映画でさきほどまで何者かが潜んでいた自室」のようなものであり、「自室」には意識的な表現(Sign:記号)以上に、無意識的な情報(Sign:痕跡)がちりばめられているというのが私的な理解だ。この二つのバランスをどのように取ろうか〜というのを継続的に相談することになるとおもう。
単純にストレス解消法の話では、ホラー映画を見るとストレス解消になるという研究があるが、意識的な表現=ショッキングな映像を見ることのストレスに加えて、無意識的な情報(Sign:痕跡)が多くおかれた映像であるということが深く関わっているような気がする。悩んでいるときはホラー映画もよく見る。あとは温かな風呂とか。
悩みを聞くのって難しい。(_ _).。o○
選択
あなたはどっち?的な棒人間絵かいてみた。
「なにやら怪しいレバーを好奇心で引いたら電撃が走って黒コゲになった。あなたはその後、このレバーについてどう考えるか?左は危ないから近づくのをやめる、右はレバーを引くたびに電撃が走るのかどうかを確かめる」本当に利口なのはどちらか。知識か態度か。